伝説的写真家ビル・カニンガム 「美を追い求める者は必ずや美を見出す」

メンタル

3週間ほど前のことになりますが、6月25日に、ファッションフォトグラファーのビル・カニンガムが亡くなりました。87歳でした。

個人的にちょっと寂しい出来事だったので、部屋でこっそり故人のご冥福をお祈りしました。

87歳の訃報というのは20歳のそれとは違い、一般的には自然なものとして捉えられます。でもたぶん多くの人が彼の人生は特殊なものだと思っていて、安らかな眠りを祈る気持ちと、何だかひとつの時代が終わったような、焦りに似た気持ちを感じたのではないでしょうか。ニューヨーク在住の人にはとくに寂しいでしょう。さすがのおしゃれセレブ、サラ・ジェシカ・パーカーは追悼の意をこめて、カニンガムのいないニューヨークのストリートは何かが変わってしまうかも、というようなことを(意訳)言っています。

Child.

SJPさん(@sarahjessicaparker)が投稿した写真 –

泣く子も黙るアナ・ウィンターも黙る

ストリートファッションスナップの元祖といわれるビル・カニンガムは、米ニューヨークタイムズ紙で約40年、「ON THE STREET」「EVENING HOURS」の2つのコラムを担当していました。いまのファッションブロガーや、インスタグラマーの存在はもしかすると、カニンガムがいなければ少し別の様相を呈していたかもしれません。ファッション業界で最も大きな権力を握っているともいわれる米VOGUE誌編集長のアナ・ウィンター(映画「プラダを着た悪魔」ミランダ役のモデルになったといわれる人ですね)が、「We all get dressed for Bill」、私たちはみんなビルのために服を着るのよ、と言ったことはよく知られています。

NYを歩く人びとの写真を撮ることはカニンガムの仕事の大部分を占めていたと思われますが、彼がアナ・ウィンターのような大物からも尊敬を寄せられる理由は、彼女がいまほど権力のなかった若いころから知られている、などということのほかに、「有名人と一般人を区別しない」という姿勢もあったはずです。

実際、ウィンターでさえ「今日はイマイチ」だと思われればカニンガムに黙殺されてしまう。すると彼女は「今日はどこがまずかったのか」と少なからず動揺する。それはつまり、カニンガムは真にファッションしか見ていないということです。決して良心から「有名人も一般人も区別なく公平に接しよう」としたわけではない。この人には“スタイル”があると思えば撮る。ないと思えば撮らない。だからウィンターは動揺する。

静かで熱情的なビル・カニンガムの生活

カニンガムの生活の特異ぶりは、2011年公開のドキュメンタリー映画「ビル・カニンガム&ニューヨーク」に詳しいので、もし興味のある人がいたらぜひおすすめしたいのですが、日本でも結構話題になったはずなのですでに見てる人も多くいらっしゃるでしょう。リチャード・プレス監督が8年かけてカニンガムを説得し、計10年の歳月をかけて完成させたという同作はまさにねばり勝ちとも言うべき出来です。

作中におけるカニンガムの生活を見ていると、まず私たちの頭に浮かぶのは「清貧」という言葉かもしれません。

住まいはごく小さなアパートメントの1室で、フィルムを置く棚と、簡易ベッドしかありません。仕事をして、眠る。それが彼の人生なのだということがわかります。

とはいうものの、彼は自分の仕事を仕事でなく「楽しみ」だと言っていました。実際、無報酬を貫いたのだということですが、では収入減がどこから出ていたのか、ニューヨークタイムズからベーシックインカムのようなものが出ていたのか、その辺りはよくわかりません。ただ無報酬は「誰かに口出しさせないため」でもあるということです。無報酬とは、ときに批判対象にもなりえます。ポイントとなるのは責任の所在なわけですが、カニンガムはただ自分の思う「完璧な仕事」をするために無報酬であったわけです。

そしてモード界で、ある一定の地位を築いた人がしばしばそうであるように、晩年のカニンガムもやはり自分自身のファッションにはあまり関心がありませんでした。

これは不思議なことですが、アナ・ウィンターもウィッグを変えないし、マイケル・コースは白いTシャツしか着てないと冗談で言われたりもします。カール・ラガーフェルドも頑ななまでにカール・ラガーフェルドです。思うに、一流の審美眼を持つ彼らはある時点で「決定的な」、これ以上はどこにも行けないというスタイルに到達してしまうのかもしれません。それとも単純に世にあふれるかえる他人のファッションで満腹になってしまうのかもしれない。カニンガムの場合には、青い作業着と自転車がトレードマークでした。雨の日にはやはり青のポンチョ。敗れるとテープで補強という力技。

そして日曜日には教会に通っていました。私には彼の人生そのものが信仰に思えて、それはとても自然なことのように感じられました。

偏屈でもむっつりしてても幸せな人はいる

私は多少偏屈に見えたとしても、ストイックで自分のスタイルを崩さない生活を送っている人が好きです。「ストイック」という言葉から「辛く苦しい」というイメージを持つ人もいるかもしれませんが、そこには確かな喜びがあります。テニス選手ならラファエル・ナダルが好きなんですが、それも同じ理由です。彼もかつてウィンブルドンで、ほかの選手はエリザベス女王陛下に拝謁しているのに、ひとりだけ「決まった練習があるから」と言って練習にいってしまったことがあります。驚いた記者が、「いったい何があったらあなたの習慣を変えることができるのか」と質問したくらいです。私はこういう人をみると、うまく言えないんですが何だかニヤニヤしちゃうんですよね。それですごく好きになってしまう。

たとえば私が面倒にみえたり我慢を強いられる美容法を実践して記事書いたりするのは単純に楽しいからです。もちろん自分の満足いく容姿を得たいし、達成したときには世界が光輝いて見えるものだけど、それでも、「1本500円の完全美容ドリンク」みたいなものが開発されて、「これ以上に効果のあるものってないですよ、これさえ飲めばどんな人も潜在的な美が全部引きだされるんです」と証明されたとしたら、いまほど美容に夢中にはなれないしブログだって書かないでしょう。まあ、そのときは書くネタ自体なくなるでしょうが。

「美を追い求める者は、必ずや美を見出す」とはよく知られているカニンガムの言葉です。私は、追い求めたい。もし、「追い求める」という過程がなければ、そもそも美を見出すということはできないと信じているし、その過程がなければ我々は美しさに価値を見出せないのではないでしょうか。だからなのか分からないけど、私は「楽して痩せる」とか「寝てる間にくびれが!」みたいなのってまったく興味が持てないのです。そういうものが世の中でもてはやされるのもよくわからない。単に私がヘンタイなのかもしれませんが。

カニンガムはよく、「にこにこ笑って感じのよい人」とか「とっても可愛くてチャーミングな男性」みたいなイメージを持たれていますが、私にはどうもそうは思えませんでした。何となく、もっと寡黙で情熱は内に秘め、むっつり黙り込んで仕事をするような、そんな人じゃないかと想像していました。

彼はパリコレには必ず訪れていたので、パリのモード関係者には面識のある人も多いのですが、そのうちのひとりにお話を聞いたところ、やはり世間のイメージとは少し違う、とにかくストイックで仕事一筋の人という印象だった、と言っていました。

それで私は、勝手なことですが自分のイメージ通りで少し嬉しかった。いずれにしても彼は自分の人生を思うままに生きた人のひとりであるはずです。世界にはさまざまな人生があり、幸福のかたちもそれぞれだな、とビル・カニンガムの人生を思うと強く感じます。誰しもが結婚して子供を持ち、庭付き1戸建を郊外に建てて、お金に困らないということだけが幸せな人生というわけではないのだと。

スタイルを求める人、求めない人

上記したアナ・ウィンターの「私たちはみんなビルのために服を着ている」という言葉はもちろん、「カニンガムに写真を撮られることが名誉である」ということだけを意味するわけではありません。カニンガムに認められるということは、その人は真に従うべき自分だけの美意識を有しているということだし、それを現実にかたちにしている。超訳すれば「服を着るということはスタイルを持つこと」とも取れる言葉です。

ビル・カニンガムの人生について語られるとき、たくさんの人が「とても幸せな人生だね、好きなことを貫いて」と言います。でもいったいそのうちどれだけの人が、「自分の好きなことを貫く」人生を望んでいるのだろう?と私は考えてしまう。彼のような人生は幸せだと口にするにも関わらず、ほとんどの人は「でも自分は多数の人が幸せだと言っているモデルコースを歩みたい」と思っているのです。だからこそビル・カニンガムの人生は特別に輝いて見えた。かつて思春期のころの私は強くスタイルを求めたものだけれど、さまざまな要因によって徐々にそういった情熱は失われてしまいました。多くの人がこのような道を歩むものかもしれません。しかしここに来てまた求めつつあります。パリに来て、見知らぬ人びととふれあい、恐ろしく無知な自分を知り、そして頑固なまでに自分に忠実だったビル・カニンガムの人生を思うことによって。

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