モテる秘訣・若くて美人じゃなくても大切にされる女性


以前美人でモテない人の謎について書いたことがあります。
そのときのポイントは主に
■自己評価が低い
■自分をおとしめるような発言をする
というものでした。
今でもそれは間違っていないし、そういう美人たちがちょっと気がついて軌道修正できれば、あっという間に蝶よ花よのモテ人生に早変わり出来ると思います。
でも最近ふと思うことは「美人でモテない人」というのはそれはもはや美人ではないのではないかということです。
◆美人で不幸な人生もある
もちろん顔立ちの良い人のことを 美人という限り、彼女たちは美人であることに変わりはないけれど、美人というものは本来、なんと言われようと得をするものです。
いろいろな人が、いろいろな面で美しい人を優遇する。
その恩恵を受けていない「顔立ちの美しい人」は、「自分なんて」というような枕詞をしばしば発するし、まわりから軽く扱われたりすることもよくあるし、自分の人生には華がなく、そう幸福でもないと発言したりもする。
ぜんぜん、美しいのに得をしていない。
彼女たちはもしかしたら同性からは好かれるかもしれない。
でもそれは「この人キレイだけどなんか親しみやすい」という安心感によるもので、「親しみやすい」とはいうものの「美人だけどそんなに恐れることはなかった」という本音が根底にある場合があります。
そして悪い場合には下に見られて雑に扱われてしまいます。
イヤなことだけれど社会生活ってそういうことがよくあります。
◆美人は良くも悪くもドキドキさせる
ではほんとうの美人を前にしたとき、人はどうなるかというと、それはどれだけ「気さく」で「親しみやすい」人柄であったとしても、やっぱりどこか緊張してしまうのです。
それは「この人から嫌われたくない、好かれたい」という気構えから来るものだろうと思います。
個人的には悪いことではないと思っています。相手に軽く扱わさせない、尊重してもららる、ということで、「親しみにくい」ということとは別物だと思います。
同性であっても、ドキドキ心浮き立たせる人っていますよね。
「私のために時間を作ってくれたんだ、嬉しい」
と会ってくれるだけで感激してしまうこともある。
よく「美人は性格がきつくて冷たい人が多い」と言ったりしますが、美人でモテモテの人生を送っている人がそんな風に性格が悪かったという試しは、私の経験上ありません。
そういう「キレイな顔で性格に疑問のある人」というのは、よく見てみればわかるものです、「美人風」なだけだというのが。
そんなにモテてもいないし、モテの質も悪い。
美人は、無条件で隣にいる人をうきうきさせてくれるのです。
私は日本ではよく上記の「美人なのにモテない人」に知り合って、渡仏してからは反対の「それほど美人でもなく若くもないがモテる」何人もの女性に会う機会に恵まれました。
この「モテる」というのは、この世には「男性にさえモテればよい」というような恋愛指南書がいくつもありますが、それでは不足です。
本当にモテモテで大事にされる女性は誰からもモテます。
老人でも子供でも男女問わず、そしてもちろん夫や恋人からも。
ずっと大切にされているのです。
それってなんでなんだろう、って彼女たちはついつい観察せずにはおられない存在です。
◆いくつになってもリスペクトされる人は“選ぶ側”にいる
私が一番心惹かれ、そして美人の典型だと思うのは、元弁護士でロンドン出身の40代半ばの女性です。
パーティーで会ったのがきっかけで、何度か食事も共にしました。
フランス男性と結婚してから仕事を辞めてパリに移住し、友人を作る目的もあっていろいろなパーティーや会合に参加していますが
平均年齢が若い、20代前半くらいの集まりでも浮いたりはしません。
それはパリだからというだけではないと思います。
若いパーティーで浮いている人もよく見かけます。
彼女は、顔立ちは平均的かもしれないし、今は産後で体系も少しぽっちゃりです。
でも服装はいつでも手を抜かず、とてもキレイです。
髪の色にあった色のセーターとか、華奢でシンプルなネックレスとか、そしてなにより彼女がにこやかに登場するとその場がパッと華やぎ、その場のレベルが5つくらい引っ張りあげられる気がします。ああ、私は、今ちょっと良い場所にいるんだって思わせてくれる。
彼女は私が思い浮かべる欧米の長所だけを持っているような感じ。
にこやかで、気さくで、誰にでも公平に親切に接することが出来る。
「誰にでも公平に親切」だということがわかっているから、彼女から悪どい感情のようなものが流れてこないって知ってるから、みんな彼女の側に行きたいし、私もそうです。
そしてこの「にこやかに、誰にでも公平に親切」という態度は、絶対的に崩れない「自信」がある人にしか備わっていないのです。
彼女は若いパーティーに入るのに躊躇しない。
「私はもう40代だから……」みたいな卑屈な発言もしない。
つまり
「選ぶのは彼女であり、向こうから選ばれるのではない」
というスタンスがはっきりしています。
そしてなにか自分が良いと思うものがあったら、一人占めはぜったいしない、みんなにさっと分け与えてくれる。
おおらかで、太っ腹。
だから彼女にもみんな何かしらのものを送りたがります。
キラキラした美しい流れが、彼女のまわりを循環しています。
私は彼女から声が掛かると、素直にすごくうれしいし、なんだか自分がシャイな男子中学生になったような気持ちになります。
そんな彼女を「べつに美人ではないけど……」と言うことが出来るでしょうか。
私は、彼女はもはや美人なのだと思います。
男女問わずどの世代の人間も彼女を好いて、大事な人として扱う。
妙なからかいや侮辱とはほぼ無縁で、夫にも大事にされている。
たとえ顔立ちが完璧に美しくとも、人から粗雑に扱われては無意味です。
私が「美人」を想うとき、そこには彼女の姿があります。
艶があり、華があり、圧倒的な魅力が渦巻いています。
◆努力が自分との信頼関係をつくる
彼女の他にも、顔立ちは平均的なのにモテモテの人、日本人女性の間では「あの子可愛くないよね」と陰口をたたかれてるけど、日本でもフランスでも彼氏や彼氏候補の絶えない女性も知っています(陰口をたたいてた子たちも彼女と実際知り合ったあとではそんなことはもはや口に出来なくなってしまう)。
彼女たちは誰も「私ってブスだから」とか言ったりはしないし、自分がモテていること、これからもモテるだろうことに疑問を持ってない。
そしてこちらで会ったモテモテ女性全員に共通することは、「高学歴」あるいは「自分の好きな職に就いている」ということです。
なんだそれ!高学歴じゃないとダメなの!?
と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、高学歴はその人に自信を与える大きな要因になります。好きな仕事についている、もたぶんそうだと思います。
パーティーに行けばその場にいる人と絶え間なくコミュニケーションを取らなければいけません。
出会って、あ、どうも、こんばんは、はじめまして、で、名前を名乗り合って、そのあとたいていみんなこう訊くわけです。
「なにをしてらっしゃる方なんですか?」
自分今の立場を「ああ、いやだな……もっと別のことがしたいのに……」と思っていたらだいたい声がちいさくなってしまいます。私も、「あんまり今うまくいってないな……」って思っているときと、「今、絶好調、うまくいってる!」と思っているときには、初対面の人の対応も全然違うのを感じます。
努力が必ず報われるとは限りません。そういうことではなくて、たとえば高学歴の人は「私は人より勉強してきたのだ」と自負しているだろうし、好きな仕事についている人は「この仕事に着くため必死に頑張ったんだ」と自負しているでしょう。努力は自信につながりやすいのです。もちろん高学歴でも自信のない人はいるでしょうが、それはまたべつのことして、これは人が自信を持つには、努力が一番シンプルな方法だという話です。
本来は「圧倒的な顔立ちの良さ」は自信に繋がりやすいはず。
それは生まれ持った才能と同じです。
しかし元々の美人より努力した美人の方が自信を持ちやすい。
肌をケアして、ダイエットして、筋トレして、食事に気を使って、私はこれだけやったという自分の身体との信頼関係があります。
それはまた、自分の肉体を大切に扱っているということでもあります。
ほんとうは、なんでもいいのではないかと思うのです、自分が自信を持てるなら、自分に価値を置けるなら。
それくらい、自信というのは得難く、貴重で、魅力的なものなのです。
フランス人はだいたい自信家ですが、あれはちょっと違います。
ほぼエゴイズムのゾーンに足を踏み入れてる人が多いからです。まあときどき自由すぎて羨ましくなることもあるけど……(もちろん謙虚な人もいますよ!)
きちんと正しくまっすぐな自信を得ることが、人生を確実に良い方向に向かわせます。
長くなりましたが私なりにまとめてみると
■自分に自信がある(エゴや見栄とは別)
■誰にでも公平に親切
■自分が大切なものだと知っている
■にこやか
■ケチではない(浪費かとは違う)
■繰り返すがエゴイストとは違う
という感じになるでしょうか。
ちなみに
「美人なのか?美人ではないのか?」
の個人的な判断基準として、清潔感……というと語弊があるのですが、たとえばある女性を思い浮かべて
「そのひとが生クリームをすくって舐めたスプーンを、潔癖な私はそのあと喜んで使えるのか?」
と考えてみる、とわかりやすいです、自分の気持ちが。
自分が「美人」と思っている相手だとぜんぜんイヤじゃない。
むしろちょっと嬉しい……
あ、なんかおかしな感じになりましたね!いけないね!ではまた!

